祖母が子供の頃のことだ。
当時彼女が住んでいた家には母屋のほかに離れが一棟あったという。
ある晩秋の夜。祖母は用事があってその離れへと向かった。
草履をつっかけて中庭を渡り、荷物か何かを運んだそうだ。
一仕事を終えてさあ戻ろうとなった時、自身の草履が見当たらないことに気付いた。
履いてこなかったはずはない。一体どこへいったのだろうかと辺りを見回す。
すると三和土のはるかに向こう、今渡ってきた中庭に自分の履物があるのを見つけた。
ぱたん、ぱたんと音を立てながら中庭をゆっくりと進む自分の草履。
草履はしなるように虚空へ上がっていき、ぺたりと地面に降りる動作を交互に繰り返している。
それを見たときに「ああ、誰かが履いているんだな」と妙に納得したのだという。
暫くその光景を呆然と見ていると、突然ポォンっと草履の片方が空に舞った。
そのまま草履は地面に落下し、それきり動かなくなったそうだ。
「それでねえ。草履を履いていたお化けなんかよりも、汚れた足を洗った水が本当に冷たくてね、その方が何倍も嫌だったのよお――」
と、祖母は何度も繰り返し語ってくれたのだ。
炉辺談話
今は亡き祖母から聞いた怪異譚である。
実際にこの話を聞いた際、祖母はその現象よりもその時の水の冷たさを何度も何度も入念に自分に説明してくれた。
個人的には怖さよりもその風景が印象に残る不思議な話だった。