蚊取り線香

都内で一人暮らしをしていたTさんの話だ。

当時求職中だったTさんは、猛暑の最中に節電生活を余儀なくされてしまったという。

ある夜、Tさんはいつものように窓を開け放してTVを見ていた。

窓を開けているからにはどうしても蚊が入ってくる。虫除けには安かったからという理由で蚊取り線香を使っていた。

TVがCMに入り一段落し、ふと部屋に眼を移すと雰囲気がおかしい。

部屋の中が不自然に煙たくなっている。

見ると、床に置いた蚊取り線香が妙に明るかった。

誰かに息を吹きかけられているかのように発火部分のオレンジ色の炎がカーッと光って燃えているのだ。

「火事か?!」

慌てて顔を近づけると、萎むように火勢は大人しくなった。

不思議に思い息を潜めて凝視していると、またカーッと燃え始める。

(窓を開けていたし、風かな)

そう思い窓へと視線を向けたTさんの目に、奇妙なものが飛び込んできた。

空中に漂っている蚊取り線香の煙が歪な形に凝り固まっている。

下から絶えず煙が昇ってきているので、はっきりとした輪郭にはなっていないが、明らかに人の顔面がこちらを向いていた。

はげ頭の、眉の薄いおじさんのような顔をしていたそうだ。

思わず叫びそうになった瞬間――

(こんな壁の薄いところで大声を出したら、大騒ぎになってしまう!!)

そう思ったTさんは、喉元まで出ていた叫びを必死で噛み殺した。

悶絶しているTさんに気が付いたかのように、その顔は不意にぐにゃりとゆがんで煙とともに窓から出て行った。

我に返ったTさんは急いで蚊取り線香を消火すると、そのまま近くのファミリーレストランに避難して夜明けを待ったそうだ。

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